人 間 の 科 学
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心筋梗塞で死んだ男


人間というものはごくあっさりと死ぬこともあるものだ。筆者は最近心筋梗塞で突然倒れた男が、そのまま静かに死んでいった事態を目のあたりにして、人間の命のはかなさに感じ入るとともに、自分も死ぬのなら、こんな風に穏やかに死んでいきたいと、なかばうらやましく思ったことがあった。

筆者の勤務先は神田岩本町にある。男はそこの夜勤要員として3ヶ月前から勤めていた。年齢は60を過ぎていたが、引退してしまうには中途半端な年だから、余り体に負担のかからない仕事を晩年の生業に選んだのだといっていた。温厚な人柄で、いつもニコニコと笑顔が絶えなかった。

その男が倒れたのは、11月半ばのある日の夕方近くである。いつも四時過ぎに、仲間の男と二人連れ立って出勤してくるのだが、その日はその仲間の男だけが血相を変えて事務所のなかに飛び込んできた。そして興奮しながら、彼(Y)が近くの路上で倒れたとまくしたてた。

筆者は急いで現場に駆けつけた。仲間の男(O)が道々いうには、いつものとおり地下鉄の駅で落ち合ってコンビニで買い物をし、その店の前に座り込んで休んでいたところ、Yが突然後ろに倒れて動かなくなった。Oは声をかけたり体をゆさぶったりして様子を確かめたが、思わしい反応がない。そこで事態を重く見たOは、持参していた携帯電話で119番通報し、急いで筆者のところに駆けつけたというのである。

案内された場所に駆けつけてみると、Yはコンビニの軒下に仰向けになって寝そべっていた。見るとすでに血の気が引いている。筆者は事態のただならないことを感じ取った。

警察官が先に駆けつけていて、同僚のOを捕まえると、いろいろ質問をする。そのうち消防車がやってきて、隊員が人工呼吸と心臓マッサージを始めた。消防隊員の処置は手馴れたもので、Yの胸の上に覆いかぶさり、リズミカルにマッサージをする。そのうちYは大きなうめき声をたてて、頭を振る仕草を見せた。血の気も心なしか戻ってくるような感じがした。筆者はそれを見て、Yは生き返ったのかもしれないと期待した。そこで思わずYに向かって、「おい、しっかりしろ、いい調子だぞ、そのまま目を覚まして、起き上がってこい」と呼びかけた。

やや遅れて救急車も到着し、救急隊員による救命措置が続けられた。筆者はその時間を利用して、家族への連絡の手配や、仕事の段取りをする。そうこうするうち、受け入れ先の病院が決まった。家族の希望は普段かかりつけの病院へということだったが、救急隊員は、このケースは救命措置を必要とするので大学病院でなければだめだという。

筆者はとりあえず救急車の出発を見送った。去り際、救急隊員は、生死どちらに傾くかは五分五分だろうといった。

職場へ戻ってあらためて家族へ連絡をとり、搬入先の病院へ駆けつけるよう依頼した。また警察消防とのやりとりやYの事故で穴が開いた仕事の段取りを終わらせ、一段落したところで病院へ向かった。

病院にはYの娘さんがすでに駆けつけてきていた。住まいがそう遠く離れてはいないので、タクシーを飛ばせば10分もあればつくという。Yは救急治療室に入れられ、目下救命措置を施されているらしい。

娘さんが医師に呼ばれ、説明を聞いてきた。Yの症状は心筋梗塞によるもので、心臓が自力で脈動することが出来ないため、機械で動かしている状態だという。無事生き返るかどうかは微妙だというのだ。

どうやらYの場合には、救命措置が効果を表すには、心臓がとまった後の時間が長すぎたようだ。彼は結局、病院に運ばれて数日後に、延命装置をはずされて、死なねばならなかった。

Oの話などをもとに、筆者は改めて事故の流れを整理してみた。Yが倒れた後Oはすぐに119番通報したといっていたが、最初の消防隊員が到着するまでには数分はかかっていただろう。というのも現場から筆者の事務所までは、走りながらでも三分近くかかる。Oはそれを往復したのだから、最低でも119番通報してから消防隊が心臓マッサージを始めるまで、5分以上はかかっていたはずだ。

普通心臓が止まってしまった人間が、再びもとどおりの機能を回復できるか否かの分岐点は5分くらいだといわれている。5分を過ぎると脳のダメージが大きくなり、生き返ることはきわめて難しくなる。Yの場合にはおそらく、この分岐点を少しはみ出ていたのだろう。一旦は心臓が動き出したように見え、頭を揺さぶるような仕草をみせたのは、境界領域の現象だったのではないか。

病院に搬入されてから一週間ほどしてYは息を引き取った。医師が脳死と判断して心臓の装置を取り外したのだという。

Oの話によれば、Yが最初に倒れたときには、それこそ眠るようだったという。二人並んでコンビニの軒下に腰掛けていたら、Yは静かに体を横たえた。苦しむ様子もなく、ちょっと一眠りしようとするかのようだった。その後Yは二度と意識を取り戻さなかった。ひと時の眠りがそのまま永遠の眠りに続いていったのだ。

もしYが生き返ったら、あの世の入り口で見聞したことを、是非聞いてみたかった。






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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013
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