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首吊りの力学:漱石の"猫"とホートン



読書誌「図書」の最近号に載っていた筒井泉氏の「漱石の"猫"とホートン」と題する小品を大変興味深く読んだ。ホートンという十九世紀のイギリスの学者が書いた「首吊りの力学」という論文を、漱石が「吾輩は猫である」の一節で紹介しているというのだ。その題名もずばり「首吊りの力学」。筆者が「猫」を読んだのはもう何十年も前のことだから、そんな一節があったなどとは、すっかり忘れ去っていたが、筒井氏が紹介しているホートンの論文には、別の面から興味をそそられたわけである。

筒井氏によれば、この論文を見つけたのは寺田寅彦で、彼は読み終えるとすぐに漱石に連絡したところ、漱石もえらく感心して、早速"猫"の一節に取り入れたということだ。しかし漱石はこの論文の中の肝心な点、つまり絞首刑についての科学的な議論は紹介していないのだそうだ。

ホートンがこの論文を書いたのは1866年のこと。当時のイギリスでは、絞首刑についての科学的な研究が確立されておらず、不完全な執行方法によって受刑者に多大な苦痛を与えたり、首を切断してしまう事態がよく起こったそうだ。そこでホートンは、絞首刑の執行方法に科学的な考察を加えることによって、受刑者が余分な苦痛を蒙ることなく、"楽に"死ねる方法を考えたのであった。

ホートンはまず、イングランドとアイルランドにおける絞首刑の実態について視察研究した。すると望ましからざる結果が多いのはイングランドの方だということが分かった。その背景には、イングランドはアイルランドに比べて、首を吊る際の落下距離が短いという事実があった。このことからホートンは、首吊りにとって落下速度がきわめて重要な因子になっているのでは、と推測したのである。

ホートンは、首吊りによって人を死に至らしめる要因には三つあると考えた。頸動脈の圧迫による脳出血、気管の圧搾による窒息、そして脊椎骨の損傷による延髄への衝撃である。もっとも重要なのは三番目で、これは痙攣などを伴わず瞬間的な死をもたらす。

これを実現するためには、アイルランドの実態に従って、長い落下速度が必要である。またその際には吊るされる者の体重をも考慮する必要がある。というわけで、ホートンは絞首刑の確実でしかも安全な執行方法は、吊るされる者の体格(体重)との関連で割り出した落下距離であると結論付けたのである。

ところで、当時のイギリスでは、受刑者を踏板からつり落とす方式を取っていたのに対して、アメリカでは、滑車と錘を用いて釣り上げる方法を用いていた。この場合には、錘は受刑者と同じ重さとし、その(錘の)落下距離はイギリス式の場合の二倍であるのが適当だとした。

ホートンのこうした考え方は、その後の死刑執行現場でも深められた。現在世界的な標準となっている絞首刑の執行方法は、アイゼンハワーが軍人時代に作ったものだが、そこでは吊るされる者の体格と落下距離との関連が詳細に述べられている。この方法に忠実に従っている限りは、絞首刑は最も確実でかつ苦痛の少ない死刑だといえるそうだ。

漱石が絞首刑の科学的な研究の必要性を深く理解していた可能性は、あまりないようだ。もしあったとしたら、これをクシャミ先生たちの茶飲み話の話題にとどめず、もう少し真面目な論議の話題にさせていただろうと思われるのである。






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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2014
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